やまむuのゆるいブログ

人生、明るく楽しく前向きに。目指すは、歳に負けないスマートランナー!

現場監督の日々。右○のオジさんが現場に本を置いていった編。

その人が来た。

現場をやっていると、色んな人が来る。

その時も、噂には聞いたことがある、いわゆる「本屋さんが来た。」

 

これも20代の若かりし日の、駆け出しの現場監督時代の話し。

ある程度大きな現場は、箱バンと呼ぶ現場事務所を置く。私が担当したその現場は、小さかったので箱バンを置く予定は無かった。

なのに、下請けさんが、勝手に自分のところにある箱バンを持ってきちゃった。

 

これが、間違いのもとになった。

 

現場が始まってからしばらくしたある日、

そのおじさんは、突然やって来た。

北方領土の本

現場の箱バンに、スーツ姿の中年男性が来た。その人は、おもむろにデッカイ本を取り出し、

 

「これ、置いていくから。大事な事が書いてあるから読んで。また来るよ。」

 

と、言って去って行った。

その本が、北方領土問題の本だった。

 

A3サイズだったかな。

結構大きくて分厚い本の値段は、5万円と書いてあった。

 

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街宣車が来た!

「また来るよ」と言った中年男性は、2日後現場にやって来た。

 

しかも街宣車に乗って。

 

正直、私はビビっていた。

でかいスピーカーと、菊の御門が金色で書かれた車を間近で見た時は、そりゃあもう心臓がバクバク。下請けさん達は遠巻きにこちらを見ている。若き現場監督の私はどうすればいいのか、あたふたするしかなかった。

解決に向けて

会社に電話して、そうそう、この頃はまだ携帯電話が出始めたばかりの頃。

お笑い芸人の平野ノラさんが、「しもしも〜」ってやっているあの電話機で会社に連絡した。

事情を話すと、たまたま会社にいた、ちょっとアウトローな、でも仕事は抜群に出来る先輩が来てくれた。

あまり話したことがないその先輩は、現場に着くと、街宣車に乗り込み、例の中年男性と話し始めた。

 

しばらくは経ったあと、街宣車は帰って行った。

先輩は、一言

「済んだよ。もう来ないから大丈夫だ。」

そう言って、自分の現場に向かって行った。

後日、その先輩にお礼を伝え、どうやって解決したか教えて欲しいと言ったが、最後まで、教えてくれなかった。

お金で解決してはいないと言ってた。

じゃあどうすればあんなにスマートに解決できるの?

疑問は増すばかりだった。

 

現場には、「本屋さん」以外にも「当たり屋」が来ることがある、先輩の現場に来た当たり屋の話はまたの機会に。

とりあえず、その後私の現場にその本屋さんは現れなかったから、

ま、いっか。

現場監督の日々。路線バスを止めちゃった編。

火もし担当

ん?何それ?

今でこそ野焼き禁止だけど、禁止される前は田舎の方はフツーにどこの庭でも焚き火していました、うちの実家もしょっちゅう燃してました。

だから、週2回出す燃やすごみは、今より少なかったと思う。

20代の時、現場監督をやっていた造園会社では、現場で発生した枝や草は乾かしてから燃やしていた。

当時は、どこの造園会社もそんな感じだった。

コンマ8のユンボ

現場監督をしていた会社では、コンマ8のユンボを持っていた。コンマ8って0.8㎥のバケットがついているユンボのこと。

あっ、ユンボってショベルカーのことね。


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これこれ。アームの先に付いているのがバケット

このユンボでデッカイ穴を堀り、色んな現場で発生した枝や草を穴の横で乾燥させて置いて、天気を見て火もしする。

最年少の私は、先輩の命令でよく火もししたもんだ。

 

社長、ゴメンなさい。路線バスを止めちゃった!

会社の敷地(正しくは社長の土地)に、火もし専用の場所があった。

一応、天気に草や剪定枝の乾き具合を確認してから火もしする。

あの日も、行けると思って穴の中に降りて乾いた草に火を着けた。

風向きも、道路には行かない北風。

始めはよく燃え、ほとんど煙が出ない完璧な火もしだった。

 

最初の塊を燃やし終え、次の塊をユンボを使って穴の中に入れた。

そしたら、まだ乾きがよくない草から白い煙が大量に出始めた。

いつも白い煙は出るので、あまり気にしていなかった。

「しばらくすれば、燃えるはず。」

 

だけどこの時は、白い煙がモクモクとしかも、どんどん増えてきた。

でもね、伝家の宝刀「灯油攻撃!」がある。

火が弱まってきたら灯油を入れて再発火するのがいつものセオリー。

ユンボバケットにポリタンクから灯油を注ぎ、ゆっくりモクモクの煙にふりかけた。

サァーッと、一瞬にして煙が消え、炎が復活した。

 

しかし、あっという間にまた白い煙に変わってしまった。

「あれっ、今回はやべえぞ。」

だんだん心配になってきた。

横浜とは言え、田舎の方だから大丈夫。

そう思っていた。

でも、一向に煙は消えない。

それどころか、白い煙が一段と増してきた。

確か、二番目に入れたあの草の塊は、あの先輩がやってる現場のじゃん。

 

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クッソー、○○先輩のゴミなんかほっとけば良かった💢

あたり一面が真っ白で、これはヤバイと思っていたら、遠くからサイレンが聞こえてきた。

「あらら〜、ひょっとして俺?」

 

 

俺だった。

 

道路も真っ白で、警察官も来ていた。

 

会社の前社長が、この辺りの大地主で市会議員じゃなかったら、大変な事になっていたが、前社長のお陰で、何とか収まった。

 

ごめんなさい。社長。

 

私は、平謝りだったけど社長は、

「平気平気。今度は気を付けてね!」

 

懐の広い、今は亡き社長に感謝。

 

先週、実家に行く途中、当時勤めていた会社の横を通った時に、あの時のやっちまった事を思い出した。


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ま、いっか。

 

じゃないな。

現場監督の日々。桜切るバカ梅切らぬバカ編。

植木に関することわざ

関東の桜の見頃は終わりましたね。

これから東北、北海道が見頃になるのかな。

 

サクラは、上手く切らないと切り口から腐朽菌(ふきゅうきん)が入ってだんだん枯れてしまうよ。

逆にウメは、枝数が増えると花が多くつくので、適切な時期に剪定しないと花がつかないよ。

「桜切るばか梅切らぬばか」は、要約するとそんな意味だ。

 

桜は、日本人にとって特別な樹木だ。

 

わざわざ気象庁の職員が開花宣言する樹木は、桜以外に私は知らない。

この桜、造園会社も慎重に扱わないと、色んな意味で大変なんだよね。

 

桜の街路樹に隣接するお宅は、

花が咲いている時期以外は、実は桜が大嫌い。

 

夏は毛虫。

秋は落ち葉で大変だからだ。

仕事で、夏に消毒に行くと、近所の人は決まって口を揃えて言う。

 

花が咲いている時期だけは、

いいんだけどねぇ〜〜。


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ヒステリックなピアノ教室の先生

当時24歳の見習い現場監督の私は、公共工事で公園の改良工事を受注し、横浜市内のある公園工事の現場のサブに入ることになった。

その工事は、崖を背負っているので、間知石(けんちいし)で擁壁(ようへき)を新設することが主な仕事だった。


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※これが間知石(谷積み)の擁壁

擁壁設置工事もほぼ終わる頃、擁壁の上に位置するお宅から、役所に連絡があった。

そのお宅は、自宅でピアノ教室をやっているのだか、公園の桜の木の枝が敷地に入っているから切って欲しいと言うことだった。

 

その公園は、その辺りではまあまあ桜が綺麗な公園で、桜を切る前に、役所の担当者と地元の町内会長も立ち会って、切る位置などを決めた。

そして、桜の枝下ろしを行った。

そこまでは、まあ良かった。

しかし、剪定ではなく枝下ろしって、結構幹の太い所をチェーンソーで切るので、ピアノ教室の先生は、かなりショックを受けたらしい。

最初は、部屋から見ていた伐採作業を、途中部屋から出てきて、泣きながら、

 

「桜を切らないでください!」と大声で叫び始めた。

 

あまりの叫び声の大きさに、近所の人達が集まり始めた。

 

役所にも連絡が入り、伐採作業は一時中断した。

ハシゴ外し!先輩現場監督窮地!

役所から担当者が来るまで、延々と「桜が可愛そうだ」とか、「なんてことするんだ」とか言いたい放題。

「あんたが邪魔だから切れって役所に苦情を言うから、切ったんじゃねーかよ!」って下請けさんが言ったら、もう大変!

烈火のごとく、

 

「いいえ!私はそんなこと一言も言ってません!」

 

ひょぇ〜、なんだこの人は。

あなと、役所、地元自治会の会長、我が社の4者で現地立ち会って決めたんじゃない?

しかも、どこで切るって位置まで一緒に決めたんじゃん!

 

公園から伸びている桜の枝のことで、さんざん迷惑だなんだ文句言っていたあの人の豹変ぶりに、みんな困り果てていた。

 

ようやく役所の担当者と係長さんが到着すると、また、始まった。

そこまでもいい。

最悪なのはそこから。

何と役所の担当者が、言い放った一言。

 

「業者さんが勝手に切ったので・・・。」

 

先輩現場監督、「・・・・。」

 

自治会長さんの方を見ると、目をそらすばかりか、その場から徐々に離れていった。

 

先輩現場監督は、

 

「すいませんでした。」

 

と、一言。

目の奥は、怒りに満ちていたけど、あの場を収めるにはあれしかなかったのかも知れない。

若かった私は、全く納得できない気持ちでいっぱいだった。

 

そして、一つ学んだ、

 

「人を信じ過ぎちゃいけない。」

 

その後自分の現場を持った時は、面倒だけど、必ず打ち合わせ議事録を作成し、その場にいた人達全員からハンコをもらうようにした。

ま、当たり前のことかも知れないが、当時の公園工事は、まだまだ牧歌的な雰囲気だった。

 

後日、検査が終わり、私達が撤収作業をしている公園に、あの時逃げた自治会長が、のこのこやって来た。

「いやぁ〜あの時は、すまなかった。実はあのピアノの先生、ヒステリックでこの辺じゃ有名なんだよ。」

 

「会長〜、早く言ってよ〜!」

 

会長が持ってきてくれた、ニ升の日本酒。

会社に戻ったあと、お疲れさん会を開いた。

 

今度は、あの時一身に批判を浴びた先輩現場監督が大荒れ。

ま、仕方ないなと思いつつ、後輩の私は後始末が大変だった。

これも、人生の勉強。

現場監督時代は、現場現場に思い出がある。

あの一件も、今となっては良い思い出の一つだ。

消防団の日々。火災予防週間&特別警戒の夜警編。

地域のために

若い頃、消防士になりたいと思っていた時期があった。羽田でバイトしていた頃、「正社員にならないとなぁ」と漠然と思っていた時に、なりたい職業の一つとして消防士を考えていた。

 

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当時は、バブルがはじけ、就職氷河期と呼ばれ始めた頃。

東京消防庁は、東京会場と長野会場の両方で受験したが、どっちも不合格。

そんな時に、祖父に紹介されたのが地元の造園会社。

 

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消防団に入った理由は2つある

  1. 入社した会社の社長が消防団員だったこと。
  2. 父親がかなり前から消防団に入ってくれと言われていたのに断り続けていたところ、「そこの長男が地元の会社に勤めたぞ」ってことを聞きつけた消防団員が、今度は当時24歳だった私に白羽の矢を立て、熱心に誘ってくれたから。

 

消防団に入れば、もしかしたら消防士になれるかも知れない」と、変な下心もあったし、住んでいる地域のためにもなるから、「ま、いっか」と思い、24歳の時、消防団員になった。

うるせーって言うなよ!

消防団員を拝命し、作業服やら制服を支給されるとだんだんやる気になってきた。

なんてったって、

 

制服が大好きだから。

 

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春や秋の火災予防週間や年末特別警戒の時は、夜、消防車に乗って地元を巡回する。

その時、一部の方から心無いことを言われる時がある。

「うるせーんだよ!

 火消しー!」

 

酔った人から言われるたびに、

 

「お前んちが燃えたって、

 行かねぇーぞ!」

 

っと心の声が叫んでいた。

 

消防団員募集

最近増えてきた、消防団員。

消防団員としては、とても嬉しい。

そう、「元」って言った。

結婚し実家を離れる時、要件(居住地)を満たさなくなったので、消防団員は退団となった。

今住んでいる所にも、消防団がある。

地元の行事など、色々な場面で頑張っている。

消防団員って、日中は、自分の仕事があるから大変なんだよね。

火災の時はもちろん、地元自治会・町内会の行事にも駆り出されるしね。

消防団員にならないか?と誘われたら、前向きに考えるけど、かみさんがPTAと子供会の副会長をやっている今、ちょっと難しいかな。

その時が来たら、もう一度地域のために頑張るよ。

でもね、もう操法は厳しいな。

 

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頑張れ、全国の消防団


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なんだか右肩の奥の方が痛む。ひょっとして○○肩?

右肩の違和感

去年、バドミントン部を辞めたからだろうか。

 

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最近、なんとなく右肩の奥の方が少し痛む。

両腕は、普通に頭上まで上げることが出来るし、筋トレだって、ダンベルプレスは、15キロ(片方)上げている。

だけど、なんだか痛い。

右肩だけだと思っていたけど、最近は右側程じゃないけど、左側まで痛みだしてきた。

なんなんだ、この痛みは・・・。

曲げられないほどじゃないけど、あるところまで曲げるとそこから先に曲げようとするとちょっとした激痛。

こんな痛みは、いままで経験したことがない。


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○○肩?

これって、アレか?

○○肩ってヤツか?

ついに来たか!

確かにそんな年の真っただ中。

わかっちゃいるけど、花粉症を認めないみたいに、まだ悪あがきしている自分がいる。

 

「花粉症だって今年認めちゃったんだから、〇〇肩ってのも認めちゃえよ。」

ってもう一人の自分がささやいている。

 

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でもさぁ、筋トレ出来るじゃん。

 

職場の同僚は、身体のどこかが痛いと言うと

「そりゃ年だからですよ〜!

 いくら同じ48歳と比べて見た目で若いからって、ねェ〜。」

 

ムカーー!

 

治るのだろうか

だんだんこの鈍い痛みに慣れてきたのか、最近は、あまり気にならなくなってきた。

ネットなどで調べたり、先輩に聞いたりしてたら、痛いときは、ワイシャツのボタン止めるのも一苦労だったなんてことを聞いた。それと比べたら、まだまだ、軽いかも知れない。

日によって、痛いときと痛くない時ががあるから、しばらくは、この痛みと仲良くやっていかないといけないのかな。

これも年齢なのか若い頃の無理が影響しているのか。

 

考えても仕方ないので、クヨクヨしないことにした。

 

これも、私の好きな言葉でしめるかな。

痛くたって 

ま、いっか。

現場監督の日々。社員旅行で見た天の川がすごかった編。

三宅島への社員旅行

20代の時に勤めていた、現場監督を主な生業とする造園会社でのこと。

私が幹事をやった年、社員旅行を三宅島にした。

前年度の神津島に続き、2年連続の伊豆諸島。

行く前は、ある先輩と大喧嘩して、社内が2つに分かれてしまった。私のせいで・・・。

 

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小さな会社が真っ二つ。

反対派閥(パソコン拒否派)の2人は、最後まで意地を張って、私が幹事の社員旅行に行かなかった。

とは言え、下請けさんと合わせると15人の大所帯だ。

島に着いたら、まずレンタルバイク屋さんで、原チャリを借り、島中を走り回った。そこまでは去年の神津島と同じだった。

満点の星空

夜は、島にあるスナックでしこたま飲んだ。

愚痴ったよ。

ケンカした、先輩のことについて・・・。

飲み過ぎでグロッキーになったが、言いたいことを出し切ったからか気分はスッキリしていた。

 

スナックを出ると、雲ひとつない夜空に目を奪われた。

横浜で見る夜空と全く違い、星が今にも落っこちてきそうな、星空が頭上に広がっていた。

 

その時初めて、

肉眼で天の川を見た。

 

図鑑で見た天の川が、目の前で瞬いている。

今でも鮮明にあの夜空が頭に浮ぶ。

天の川を見慣れた人からすれば、なんてことない夜空かも知れない。

しかし、1等星も何とか見えるくらいの都会の夜空しか見たことない人にとって、あの星空は、星に興味がない人でも、感動すると思う。

 

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三宅島に近づくにつれ、その海の青さにびっくりしたとともに、夜は、酔いがさめるくらいの満点の星空。

感動の社員旅行だった。

 

ムカつく先輩から離れ、いつまでもここにいたいと思いながら、みんなで道路に寝そべって見ていた天の川は、今も島に行くと見えるのかな。

現場監督の日々。初めて原チャリに乗った24歳編。

フレディ・スペンサー&ランディ・マモラ

そんな名前、普通は知らないよね。

でもね、バイクレースファンならピンと来る名前でしょ。もう大好きだった。

その時代、ニッポンにも有名なレーサーがいました。その人の名は

平 忠彦

中学・高校校時代の私のヒーロー。

鈴鹿8耐で中々勝てずにいたけど1990年、「エディ・ローソン」と組んで初優勝した時のことは、忘れられない。


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4+1ない運動⁉

  • オートバイの免許をとらない
  • オートバイを買わない
  • オートバイに乗らせない
  • オートバイに乗せてもらわない

プラス、(オートバイを買ってくれと言う)子供の要求に負けない。

 

何じゃそりゃでしょ。

昔(今もあるのかな)こんな運動が盛んだった。

この運動のお陰で、私はバイクに乗れなかった。確かに当時、オートバイ事故が多発していた。

弟の同級生もバイク事故で死んだ。

当時16歳だった。

 

フレディやマモラ、シュワンツなど憧れのライダー達のポスターで私の部屋は埋め尽くされていたけど、結局、バイクの免許は取れなかった。

取らせてもらえる雰囲気じゃなかった。

はじめて原チャリに乗った神津島

時は流れて、24歳の夏。

当時現場監督をしていた会社の社員旅行は、神津島だった。

晴海埠頭から船に乗り、生まれて初めての伊豆諸島へ。

宿に着いてから、下請けさんの社長に誘われレンタルバイク屋さんへ。

 

そこではじめて、ヤマハJOGと言う原チャリに乗った。

夏だから上半身ハダカで。

 

エンジンをかけ、恐る恐るアクセルを回すと、あれっ、全然進まない。

前に見たワイン・ガードナーは、もっとアクセル回していたのに。

社長さんいわく、「レンタルバイクだから、アクセル甘いんだよ!」

言われる通り、アクセルをゆっくり回し続けると、スーッと進んだ。

 

おぉーーっつ!

これがバイクかぁ!

 

社長は、あっと言う間に彼方へ走り去った。

負けじと、私もアクセル全開!

島だから対向車もなく、原チャリ初心者には、最高の道路だった。

スピードにすぐ慣れ、風をきる爽快感に浸っていた。

 

その後バイクの免許取ったかって?

実は取ってないんだ。

あれだけ楽しかったんだから、中免とってバイク乗るかと、自分でも思った。

だけど、通勤手段をバイクにした初日に、自爆事故で死んだ親戚がいて、二の足を踏んでいた。実家の両親も大反対だったし。

もう、社会人なんだからいいじゃないか!

ただ、その通勤初日に死んだ親戚は、まだ幼い子供が2人いて、残された奥さんが、相当大変だったのも聞いていたから、やっぱ躊躇した。

今年、48歳。

さすがに今から中免取る気はない。

でもバイクは好きだ。

夏の暑い時期になると、鈴鹿8耐を思い出す。

それと、今は亡き下請けさんの社長と神津島で爆走した原チャリを思い出す。

 

今年の鈴鹿8耐は、どのチームが勝つのかな。

7月28日の暑い夏のレースが、今から楽しみだ!